わがままな魚が水の中で生きるのを拒み、水の外に飛び出したとすれば、その魚の待ち受けているのは、耐えがたい苦しみです。バタバタと跳ねながら苦しむ魚は、ほかの人から拷問を受けているのではありません。もともと自分のために用意されていた場所にいることを拒んだために、その結果として代償を払うことになったのです。神さまの生命圏から離脱した人のたましいが受けることになる苦しみも同様です。神さまのさばきを免れるためには、キリストにとどまらなければなりません。キリストにとどまるなら、さばきははるか彼方の出来事ですが、キリストの外にいるなら、知らぬ間にさばきは近づいて来ます。これが、私たちがすぐにみことばに従わなければならない理由なのです。
     (チェ・ソンホ著「天国についての正しい考え」より引用)
 
 本来、私たちが天地宇宙を造られた神さまを信じるのは、そういう気分になったからとか、誰かが信じているから、それにつられてというのではありません。神さまと出会うキッカケは、そうであるかもしれませんが、“信仰”とは、誰かの影響とか気分や感情ではなく、自分と神さまとの関係の中で、「私は世の中の人が一人も神さまを知らなくても、私の状況や環境がどうであっても、それとは関係なく私は神さまに従います!」ということなのです。私たちは、神さまに従うように造られているのです。ですから神さまのために生きないことから、様々な問題が起こるわけです。誰かの影響、気分、感情によって信じている人は、影響を与えた人物を信頼できなくなったり、感情が落ち込んでしまうような試練が起こると、途端に神さまに対する信仰もなくなってしまいます。これは本当の“信仰”ではありません。ただあなたの“気持ち”に従っているだけなのです。勿論、人間ですから上がったり下がったりはあるでしょうけれども、「それでも私は神さまに従います!」という主に対する信頼が大切なのです。そこからとてつもない神さまの恵みが流されていくように、この世はできています。今年も主を見上げましょう。

 苦しくて どうしようもない時 
 いつもうかんでくる ことばがあった
 神様がいるんだもの なんとかなるさ
 そして いつも なんとかなった (星野富弘)