私が小学校低学年だった時に、担任の先生がこんな話をされたのを覚えている。「水の中でおぼれている人を助ける時は、しばらくそのままにしておいて、力尽きた時に手を出しなさい。もし、溺れている人が自分の力でなんとか助かろうとバタバタやっている時に他の人が手を出すと、しがみついてきて助けようとした人までも水に引きずり込まれて溺れてしまうから危険です。」共に溺れないようにとの小学生に対してのアドバイスだったのだと思います。
 溺れている人が自分は駄目だと思いもがく力も失ったときに、はじめて救いの手を差し伸べることができるというのは、神と人との関係の中にも似たようなことが言えます。私たちが「自分の力で何とかやっていける」「誰の助けも必要ない」「自分はそんなに悪い人間ではない」と考えながら生きている間は、神さまも助けることができないということです。肩ひじ張って生きていくよりも、神さまの前に敗北宣言をした方が断然楽になれます。イスラエルの王となったダビデも、律法に生きていたパウロも、感情の赴くままに生きていたペテロも、「わたしは罪人です。助けてください!」と告白し、神さまの助けをいただいた人たちです。
 あるクリスチャンの方が、立ち食い蕎麦屋さんで、蕎麦を食べようとした時に、路上で生活していて頭も服もドロドロで悪臭を放っている人がお店に入ってきた時、すぐその場から離れようとした瞬間に、「あなたの心の方が臭いではないか」という声を聞き、自分の心を探ってみると、人を批判する心、許せない心、嫉妬、妬み、そしり、不平不満など、誰も近づかないドロドロしたもので満たされている自分を見た時、その場から去る気持ちが失せ、このような醜い心の中に入ってきて触れてくださったイエスさまの愛と恵みに感謝し涙が溢れてきたというのです。 
 神さまの前には「自分はあの人よりマシだ」という言葉は通用しません。みんな同じ罪人です。そして裁かれなければならない存在なのです。パウロのように「わたしは、なんというみじめな人間なのだろうか。神以外に救いない!」と認め告白するとき、すぐに助けがきます。