先週の礼拝の特別賛美スペシャルは、ヤングチャペル(中高生)有志たちによるご奉仕だった。牧師として、微笑ましく思いながら聴いていた。歌も演奏も完璧ではないにしても、素晴らしいものだった。(8月23日のYouTubeにもアップしているので、是非ご視聴ください。) 実はその日、プロのシンガーが二人出席していた。礼拝後、一曲歌っていただいた時に、このようにお話しされた。「今日は、中高生の賛美に大変感動しました。自分が歌い始めた頃を思い出しました。心洗われる思いでした。」と涙声になりながらの様子に、お世辞ではなく、本当に触れられたことがわかった。そして帰る時には、その中高生たちにお礼を言って帰られた。彼らにとって、大きな励ましになったことでしょう。
私が高校生の時、教会の夏のキャンプだったでしょうか、ゴスペル・タイムのような時間があって、希望者がその場で歌うという企画があった。いくつかのレベルの高いバンドが歌う中で、一人で、しかも始めたばかり?と思えるようなたどたどしいギターの演奏で歌った少年がいた。でもそれは、それまでに聴いた賛美の中でも一番心に残り、感動的だったのを今でも忘れることはできない。それは、必ずしもノーミスで、完璧で綺麗な演技や演奏だけが人々に感動を与えるものではないことを学んだ瞬間だった。
 ある陶器師の家に、不格好で粗悪な陶器がありました。その横には、きれいに造られた陶器がたくさんありました。しかし、その主人は水を汲みに行くたびにその不格好でヒビの入っている器をかついで行くのです。きれいな陶器たちは嫉妬し、不満を表しました。不格好な陶器自身も理解できませんでした。「あんなにきれいな器がたくさんあるのに、どうして水を汲むときは、私を連れて行くのですか?」と不格好な陶器が聞くと、主人は微笑みながら、こう答えました。「きみとこの道を歩くようになって、随分時が経ったね。あの道端に名もなく美しく咲いている赤い花、黄色い花を見てごらん。どうやってあの花が咲いたのか、きみは知っているかい? きみに水を入れて歩くたびに水がもれるから、それで種が芽を出し、花を咲かせて、あのような美しい花の道ができたのだよ」不格好な陶器は、主人の深い意図がようやく分かりました。
 だから心配無用。欠けだらけでも、あなたは神の手の中です。