パウロが活躍していた当時、アテネは哲学の街として広く知られていました。しかし、どんなに偉大な人物や哲学も、人類の罪と死という問題に対する答えは得られませんでした。例えば、エピクロス派の快楽主義の哲学者たちは、罪など考えないで人生を楽しむようにと教えました。しかし、いくら快楽が大きくても、それに伴って必然的に罪責感が生じ、結局は苦々しい心が生じるのは避けられませんでした。その反対の立場を取っていたストア派の禁欲主義の哲学者たちは、できるだけ罪を犯さずに身を慎むようにと教えました。しかし、いくら高尚な人格と教養を兼ね備えた人でも、理想的な自制は簡単なことではなく、むしろ全く不可能であることが、はっきりと証明されてしまいました。
 そのように絶望的な人間にとって、キリストの救いの方法は、誰にも想像もつかなかったものでした。罪の問題を解決する唯一の処方は、神の子イエス・キリストの十字架でした。イエスさまを信じることによって救われ、聖霊の力によって生きることが、確実に罪に打ち勝つ道でした。イエスさまが、死からよみがえられ、生きておられるので、罪の結果である死を恐れる必要はありません。イエスさまが御手で私たちの現在と未来を捕らえてくださっているので、人生は生きる価値があります。
                     (イ・ドンウォン著「もう一度聞くべき最初の福音」より抜粋)
 世界のどの国の人たちでも、次の4つの悩みを持つということが統計的に出ているそうです。一つは「空白感」。何をしても、何を手に入れても、満たされない心。二つ目は「孤独感」。友人や家族がいても自分を理解してもらえないという虚しさ。三つ目は「罪責感」。自分の過去に犯した悪に対して、今も縛られ苦しんでいて、心のどこかで赦されたいと願い生きているというのです。そして四つ目は「死に対する恐怖」。自分が死んだらどうなるのか? どこへ行くのか?という不安。
 私たちは、これらの悩みを消すために、哲学、善行、宗教、仕事、財産、名誉、学歴、地位、快楽などを求めながら生きています。一時的には解決したように思えても、満たされないまま生きているのが現実です。なぜならこれらの悩みは“霊的な不足”からくるものだからです。「神」でしか満たすことができない領域があるということを認めることが充足感のある人生の始まりなのです。