先日、ある方からこのようなメッセージが届いた。「今まで、許せない人を許すことができなかったのですが、諦めて進んで許すことをしようと思っています。」全体の文脈からいくと、この方の言う「諦めて」というのは、消極的な意味ではなく、「自分に死ぬ」という積極的な意味だと捉えることができます。そして最後に「神様を見ると、こんなに素敵な気分になるなんて思いもしなかったです。」と書かれていた。
 聖書によると、人は魂(精神=知情意)・肉・霊の3つから構成されているということです。多くの人は、魂と肉の部分の存在は認めますが、霊の領域に関しては知らないようです。だから魂と肉を生かそうと一生懸命になるのですが、それが逆に苦しみを増大させる結果にもなっています。イエスさまはこうおっしゃいました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」(ルカ9章23~25節)これは、「自分に死んで、主に従う」という意味です。「神無し」の魂と肉に、神の命の息が吹き込まれました。それが「霊」です。キリストを信じて結ばれたなら、古い自分から新しい自分・新しい命への書き換えが始まり、「肉と霊」の対立・葛藤が起こります。その時にこそ、古い自分にしがみつくのではなく、手放すのです。そして、神に委ねて歩むのです。「委ねる」とは、主の御言葉と霊に積極的に従っていく、ということです。
 自分に死ぬということは、人間の一生涯のテーマです。難しいですが、実は簡単なのです。誰かを批判したり、不平不満や、自分の思いや願いがニョキニョキ出てきた時が、一番自分に生きようとしている警告サインだと考えたらよいでしょう。その時にこそ、「イエスさまなら、どうされるか? どう考えらえるか?」ということを思い、自分に死ぬことによって、聖霊さまによって安定した心が造られていくのです。