聖書を読んでいて、「どうしてこのような記述があるのか?」「何故、愛なる神がこのようなことをされるのか?」「これでも神の計画なのか?」と思えるような箇所が多々あります。今も昔も、聞き心地の良いものは受け入れやすいが、現代の私たちでも、受け入れ難いことが、イエスさまや旧約聖書に登場する預言者たちによって語られることがある。これは人間の側の都合で聖書が書かれているのではなく、神が主体となっているからです。しかしながら、当時の政治的背景や文化、風習、習慣などを、考古学分野、また歴史的事実に基づいて調べていくと、かなり解決することや納得することができます。それでもわからないことは、神さまの立場、気持ちになってそこを読むと見えてきます。それでもわからなければ、祈って待つことです。
 私は、整理整頓は好きですが、書類が積み重ねられていくことがあります。ある時、家内が私の家の色々なペーパーが無造作に置かれている机の整理をしてくれました。(私は、どこに何があるのかは把握しているつもりではあったが・・・)複数のファイルの箱が作られ、「マニュアル関係」はこのファイルで、「手紙関係」はこのファイル、「教会資料関係」はこのファイルなどと種類別に作られ、書類がそれぞれに仕分けしていかれました。しかし最後に、どのファイルにも属さないペーパー類が残りあふれて、結局は片付かないわけです。そうしますと、そのような書類の行くファイルが作られました。それは「理解できないファイル」という特別な箱でした。どこにも所属しない不明の書類は、この「理解できないファイル」を見れば入っているということなのです。これで机の上はスッキリしました。
私たちの人生には、理解不能と思えることが多くあります。理不尽なこと、不条理なことなど、私たちがわからないことは、「理解できないファイル」を作って、そこに入れて置くのです。これは神に信頼することができる人のみに与えられている特別なファイルであり特権なのです。
「わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(詩篇 121:2)