「牧師の喜びって何ですか?」と問われるならば、「神さまの愛や恵み、そしてイエス・キリストは今も生きて働いておられることを伝えること。そしてそれが誰かの心に届いて、受け入れてくださる時。更に信じ受け入れた人たちの人生が変えられたという報告を聞く時」と私なら答えるでしょう。「何故、牧師になったのですか?」と問われたことがあるが、それは、美味しい素敵なお店を見つけたら、それをSNSなどに載せてみんなに伝えたくなるでしょう? 誰かと一緒にそのお店に食べに行きたくなるでしょう? それと同じように、私を愛し共におられ、導いてくださり、私を変えてくださったお方を体感したので、それを誰かに伝えたくてたまらないからです。私は牧師になる前は、商売をして一発当てたいと思っていた時期がありました。そのために地方から東京へ出ました。しかし、中2の時にイエスさまと出会ってから、少しずつ神の愛の大きさを理解し、神の力を現実的に体験していくにつれて、その感動を伝えずにはおれなくなったのです。天秤にかけた時、金儲けするよりも、キリストを伝える方が自分にとって価値のあることだと思えるようになりました。多くの日本の牧師は、アルバイトをしながら牧師をしていますが、私と同じような思いであるからでしょう。
 新約聖書の13の書簡を書いたパウロという人物は、当時エルサレムでは最高学位となるガマリエルの門下で学び、律法学者のエリートコースを歩んでいました。クリスチャンを迫害し、捕らえ牢獄へ入れるために躍起になっていましたが、キリストに出会ってから、その歩みが全く変わりました。その時から彼は握っていた学歴、立場、収入を捨てるかのようにして、テント作りのアルバイトをしながらキリストを宣べ伝える者になったのです。彼は主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値の故に、全てを失ったが、それらのものが真の価値ではない、とまで言いました。それ程までにキリストの感動が彼の人生を大きく変えました。
 イースターに2名の方が受洗しました。私が牧師であって良かったと思える瞬間でした。キリストの感動がすべての人にありますように。