「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12:24)
 これは聖書の中の一節で、この聖句は「死んだら実を結ぶ」という不思議な力を表現しています。私たちの死亡率は100%です。どんなに財産があっても、地位や名誉があっても、死を免れることができる人は一人もいません。そして共通して願っているのは、苦しまずにポックリ逝くことを望んでいます。しかしながら、出産予定日はあっても、死ばかりは、いつ、どんな形で迎えなければならないか誰にもわかりません。
 渡辺和子さんが「演劇やコンサートにリハーサルが必要であるように、死の準備も大切なのではないでしょうか?」と、書いておられた。
 本番で落ち着いて自分の役割を果たすために、私はこの本番の死、「大きな死」のリハーサルをするために、毎日の生活の中で「小さな死」の実行をすることを思い立ちました。「小さな死」というのは、自分の生活の中での小さな我慢、自分の利己心に勝つこと、他人に流されないで生きること、相手が無礼な態度を取ったのに仕返しをすることなく許すこと、相手が恩知らずなのにこちらがやさしくしてあげること・・・等を指します。これらはすべて自分が死なないとできません。私が、私が、と言っている間はできないのです。一粒の麦の“死”が豊かな実を結ぶように、私たちも自分が死ぬことによって豊かないのちを生み出すことができると信じる時、日々の生活の中で自分が死ぬことの意味ができてきて、死を肯定することができるのです。
 私たちは、自分の願望が強すぎたり、他者に対する要求が多すぎたりすると、この方の言う「小さな死」を実行することは難しい。先日、礼拝後、残っておられる方々とのお交わりの中で、「プレゼント」の話題になった時、あるご夫婦がこう言った。「特別にプレゼントをしたことはありません。毎日がプレゼントですから」・・・特別な何かがなくても、存在そのものを感謝できるようになれば、最高ですよね。