ある日、一人の男が登山に行きましたが、滑って落ちてしまいました。
崖っぷちに松の木があって、運よく枝をつかむことができ、松の木にぶら下がっている状態ではありましたが、何とか助かりました。しかし、一人で崖の上に登ることは不可能です。そこで叫びました「誰か助けてください! 上に誰かいませんか?」叫んでいると声が聞こえました。「私が、ここにいるから心配するな!」それからこのようなやり取りが神と男との間でなされました。「誰ですか?」「神である」「おぉ、神よ、私を助けてくださるなら、私は命をあなたに捧げます!」「よし、私が言う通りにしなさい」「わかりました。何でもします!」「では、あなたは松の枝を握っているその手を今、放しなさい」「神さま、それをしたら落ちて死んでしまいます」「あなたの信仰の通りになるから、手を放してごらんなさい」しばらくそこに沈黙がありました。そしてその男は上に向かって叫びました。「すいませ~ん。上に神さま以外の人いませんか?」
 実は、これは笑い話ではありますが、核心部分を突いていると思います。私たちは、“神”に助けを乞う時、自分の計画や自分のやり方を実践してくれる“都合の良い神”を求める傾向にあります。神の側の計画ややり方は、拒否するのです。そもそもそのような都合の良い神など、どこにもいません。それはただ人間が、自分の都合に合わせて勝手に作り上げた“妄想の中の神”なのです。
 聖書が教える神と人との関係は、神が主人であり、人は神の従者です。それは神が人を創造した所以です。神が私たちのメーカーであるならば、当然、私たちには目的・使命が与えられているはずです。それは神の為、神の願いを叶えるために、神の計画のために、言い換えると神実現のために人間を創られたのです。私たちにとって都合の悪い神さまですが、その目的・使命のために人は生きる時、スムーズに事が進むようにできているのです。もし、上手くいかない時は、自分中心になっていないか確認して、軌道修正してみてください。そうすれば回復できるでしょう。 
 私たちのマニュアルは“聖書”です。バイブル読んでハッピーライフ!