榎本保郎先生は、一日一章の書物の中で以下の内容を書いておられます。一部を抜粋します。
「私たちが神に用いられるとき、持っている以上の働きをすることができる。将棋の名人が優勝するのは、将棋の駒がりっぱだから優勝するのではない。駒の良い悪いではなく、さし手がじょうずかそうでないかで決まるのである。私たちは駒である。私という単なる人間の感情や利害や思いで進んでいる間は、その駒がたとえどんなに高価なものであっても、決して勝利できないのである。逆に、紙に書いて作ったような駒であっても、名人がそれを進めていったならば、勝利することができるのである。大切なことは、誰に進められ、誰にさされて自分の人生を歩んでいくかということである。この決断こそ私たち人間の責任なのである。 駒はさし手のままに進まねばならない。時には敵の陣地に乗り込み、犠牲になることがあるかもしれない。それでも良し、と絶対にさし手を信頼していかなければ、私たちはその栄光にあずかれないのである。だから与えられた確信というものをしっかり持ち、最後まで持続することが最も大切なのだと、御言葉は教えているのである。」
私はいつもこの文章に励まされます。人はこの世で、沢山のよろいかぶとを被って、自分を大きく見せながら生きています。自分の立場や持ち物を誇りながら、それを活力にして生きています。世の価値観がそうなので、そうでもしなければ生きいけないのでしょう。しかしながら、持てる物にも限界があります。この世の誇りで死の壁を乗り越えることは絶対にできないのです。どんな知者であっても、金持ちであっても、権力者であっても、必ず死ななければなりません。死亡率100%です。そこは万民平等なのです。誰があなたの人生のさし手でしょうか?
先日、ある方が「自分は神なしでも、何の問題もなく順風満帆に生きていけるではないか、と思って好きなことをして生きていましたが、このままだとヤバいことになる、と怖くなりました。自分の空洞を一生懸命、間違ったもので埋めようとしていましたが、埋めることはできませんでした。教会に来て、いのちが繋がりホッとしています。」と話してくださいました。
真の満足は、人の霊の空洞を神の霊で満たすことで与えられるのです。