「自分を振り返る鏡」というタイトルの話があります。
ある町に不満ばかりを言っている人がいました。誰も彼の不満や愚痴から逃げることはできません。ある日、彼は道で旅人に出会いました。やはりその旅人も、彼につかまり不満を聞かされました。「この町の人たちほど醜い人を見たのは初めてですよ。町の人たちはみな、人を助けることに関心がなく、利己的です。何より悪いのは、互いに中傷するのをやめないんですよ。」実は、その話を聞いていた旅人は、神の使いでした。神の使いは聞きました「それは本当ですか?」男は答えます「私の言うことが信じられませんか? ほらほら、向こうから歩いてくるあの男を見てくださいよ。名前は知らないけど、顔はよく知っています。あの切れ長の目、唇には貪欲があふれ、背中を丸めて、ずる賢くペコペコしています。歩いているというより、こそこそと這っているようですね。」天使が言いました「あなたの洞察力は凄いですね。その通りです。大変頭のよい方です。しかし、あなたには一つ見えていないことがあります。あれは鏡で、あなたが見ているのは、あなた自身の姿なのですよ」
人は他者を批判する時、批判しているその人自身の嫌な部分を指摘しているに過ぎないのです。他者を批判して指さす時、その指はどこをさしているでしょうか? 人差し指は批判の対象者ですが、親指は天(神)を指し、残り3本は、自分自身を指しています。
聖書の基本メッセージは、「キリストを信じたら救われる」ということです。それは、私たちが自分では背負いきれない罪の重荷を、イエスさまが身代わりになって十字架で命をもって支払ってくださったから、その事実を信じ受け入れるだけで救われるというシステムなのです。ところが「信じるだけで救われるなら、行動は伴わなくていい」と言い始める人たちが出てきました。それに対してパウロは「断じてそうではない!」、ヤコブは「行ないのない信仰は死んだものです」と反論しました。
エペソ書2章には、「救われたのは信仰による。わたしたちは神の作品であって、良い行ないをするように造られたのである」と書かれています。神さまが、すべて造られた人間を、良い行ないをするようにプログラミングした」というのです。この世界は、わたしたち本来のあるべき姿に戻れば、上手くいくようにできているのです。神の元に戻ろう!