先々週と先週、連続して大学時代の友人や中学時代の同窓生たち、関東からの来客などがあった。大変懐かしく楽しいひと時を持つことができた。彼らとの会話で、私の知らないところで、みんなそれぞれが嬉しいことも辛いところも通ってこられたことを聞きながら、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ、そんな時間でした。違う文化や環境を過ごした様々な個性が共鳴しながら一致しているような再会の時でした。
 私は考えます。長い人類の歴史から見ると、また神さまの永遠の領域から見ると、私たちの人生の長さは、横に無限に伸ばしたテープにポールペンで縦線を引くほどの幅にしかならないということです。そんな細い時間の中で、人は楽しんだり悲しんだりを繰り返しながら生きているということなのでしょう。私たちの地上での生活なんてあっという間に過ぎてしまいます。この地上で面白おかしく生きることは悪いことではありません。でも、たとえ健康で人間関係にも経済的にも恵まれた人生であったとしても、もし永遠の世界に対する解決がなければ元も子もありません。地上での人生はあっという間に過ぎていきます。楽しいことも辛いことも長くても100年前後で終わってしまうのです。“永遠”は終わりなくずっと続く世界です。私たちの本質は“霊”です。神さまがこの地上で活動できるように“肉体”という地上服を着せてくださいました。肉体は永遠ではなく一時的なので、やがては脱ぎ去らなければなりません。肉体を脱ぐときが“死”と表現します。しかし永遠に生きる霊の行き場所のことを考えなければならないのです。聖書には、その行き場所は二箇所あり、その一つは、イエスさまと共に生きる永遠の生命(天国)か、もう一つは、悪魔と共に過ごす永遠の死(地獄)です。私たちにはこの二つに一つしか行く場所がないというのです。
 イエス・キリストは、この地上での問題解決の為だけではなく、永遠の問題の解決のために、神なるお方が肉体を着て地上に来られました。そして地獄行きの私たちの罪の代価を、十字架にかかって支払ってくださったことにより、信じるだけで天国へ行ける道を備えて下さいました。