1900年代に、癒しの賜物が与えられている著名な伝道者が集会を行なった時のこと。一人の青年が、その集会に出たときに、たくさんの病気の人々が癒され、車椅子で来ていた人たちが立ち上がるという癒しが次々に起こりました。彼はその奇跡に圧倒されていました。集会が終わってその青年が外に出ようと人の列の流れにいると、車椅子をおしている女性の姿が見えました。その車椅子には、病気なのでしょうか奇形なのでしょうか、頭が異常に大きく体が異常に小さくて歩くことのできない子供が座っていました。肩を落としながら車椅子をおす母親の姿を見ながら彼はすぐにこう思いました。「神様! この子は、今日癒しが必要だったのに、どうして癒してくださらなかったのですか?」神様に文句を言いました。そんな気持ちのままで長距離バスに乗り込みました。そしてそのバスに乗って帰る途中、青年は、ウトウトして夢を見ました。それは、数時間前に見たシーンでした。集会が終わって、出口のあたりを歩いていると、あの頭の大きな子と、その車椅子を押している母親の姿がありました。そして「どうして、この子を癒してくださらなかったのですか?」と怒っている自分自身の姿もありました。しかし、その親子を見ていると、その後ろにイエスさまが立っておられて、その車椅子の子どもの頭を抱きかかえながら「私は、この子を忘れているのではありません。いつも心にとめています。」と語っておられる姿を見たのです。それが彼にとっての全て疑問の答えだったと話しておられました。
私たちは、癒しや、問題がなくなることを切に求めながら生きています。実際に、私は祈りを通して癒され、具体的な必要が満たされることも経験済みです。しかし、人は必ず死ななければなりません。これは神さまが定められたことです。この地上では、自分の願いが通りにいかないことも多々ありますが、私は完全な満たしと癒しと解決は、天においてあると聖書に基づいて確信しています。
「たとい親があなたを忘れるようなことがあっても、私はあなたを忘れることはない」(イザヤ49:15)この世においては、主の自分に対する愛と計画を信じて進みたいものです。