新聞にアメリカのある小学校の先生が書いた記事が掲載されました。
 その先生は自分のクラスの一年生たちに、感謝祭にちなんで自分たちが何か感謝しているものを絵に描くように言った。しかし正直なところ、この学校に通う子どもたちの家庭は貧しく、感謝するものが何もないかもしれないと思った。ほとんどの子どもたちが、肥った七面鳥か、テーブルに山と盛り上がった感謝祭のごちそうを想像して描いていた。子どもたちなりの夢だったのだろう。ところが、ダグラスが描いた絵は、先生を驚かせた。それは、子どもっぽい単純な線を使った「手」の絵だった。一体誰の「手」なんだろう? クラス全員がこの謎めいた抽象画にすっかり心を奪われた。やがて、一人の子どもがこう言った。「きっと神さまの手だよ。食べ物をその手いっぱいに持ってきてくれるんだ」「ちがうよ。きっとお百姓さんの手だよ。だって七面鳥を育ててるのはお百姓さんだもの」と別の子が言った。生徒たちは思い思いに想像をめぐらしていたが、やがて静かに自習を始めた。先生はダグラスのそばを歩み寄ると腰をかがめ、こっそり話しかけた。「ダグラス、あれは誰の手だったの?」「先生の手」と、ダグラスの消え入りそうな声が返ってきた。先生は休み時間になると、ひとりぼっちでいるダグラスの小さな手をしばしば握ってあげたことを思い出した。特別扱いしたつもりはないが、その手は彼をとても幸せな気持ちにさせたのだろう。
 感謝祭とは与えられたものや好意に対して感謝する日だと思われがちですが、この記事を通してもう一つの意味を発見しました。それはどんなささやかなことでも、人に何かをさせていただけるチャンスが与えられたことに対して感謝する日でもあるのです。大きな何かをしなくても、日々の小さな親切の積み重ねが、大きな感動へと繋がっていくのです。そして、人に何かをさせていただけることこそが、本当に感謝なことなのだと気付くべきなのです。
 「わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈る」(ピリピ1:3)