私は、“宗教”は好きではありません。世の中では、クリスチャン=キリスト教をやっている人、と考える人が多いようですが、私はキリスト教をやっている牧師ではありません。実は、“キリスト教”という言葉自体が好きではないのです。“宗教”とは、目標達成(救い・癒し・問題解決・商売繁盛・家庭円満など)のために、その教えを守って、私たちの側が努力しなければなりません。いわゆる“神”に気に入られるために、何かをするのです。でも、このような関係は、いつも人間が“神”の顔色を伺いながら、自分が気に入られているのか、救われているのか、どう見られているのかがわからないまま何の確信も得ることはできないのです。これが“宗教”の実態なのです。
 しかし、聖書に書かれている“神”と“人”との関係は、明らかに“宗教”ではありません。それはまるで親子の関係のような親密なものなのです。親は、生まれた赤ちゃんを、何故可愛がり、育てるのでしょうか? 赤ちゃんが、親に対して喜ばせることをしたから、無償でミルクをあげて、オムツを替えるのでしょうか? そしてその子どもは、DNA鑑定をして、科学的に親だと確定したから、「これは自分の親です」と言うのでしょうか? そんなことはないでしょう? 生まれた時には、どの親から生まれたのか記憶もないのに、私たちは、自分の親を親と認めています。これはある意味“信仰”だと思います。親を親と認めることは、宗教ではありません。それと同じように、私は、私たちを創造してくださった“神”を“神”だと認めているだけなのです。そしてその神は、私たちが神に喜ばせることは、何一つしていないのに、ご自分が創造された一人一人の存在を愛して、一方的に私たちに愛を注いでくださっているのです。子どもが成長しながら、親に感謝して、その愛に応える生き方をすることが健全な親子関係であるように、私たちも神の愛に応えて生きることが、この地上での使命なのです。
 「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5章8節)