遠藤周作さんが「聖書の中の女性たち」という本の中で紹介している文章です。そこに出てくる少女は11歳で死ななければならない病気と戦い、イエス・キリストによって慰められたというのです。そしてこの詩に出てくる「あの子」というのはイエス・キリストを意味するのでありますが、このような詩です。
  私のノドが痛い時、あの子のノドも痛み
  私が夜、咳をする時、あの子も眼をさまして咳をする
  私がママから叱られて泣くとき、あの子も私と一緒に泣いている
  夕陽にうつる 私の影法師のように、あの子はいつも私と一緒だ
 咳の痛みを癒すのでもなく、咳を止めてくれるのでもないけれども、一緒に「痛み」、一緒に「咳をし」、一緒に「泣いてくださる」キリストによって淋しい病床で慰められたというのです。神様が、共におられるありがたさだと思います。
 
 エジプトの地で、イスラエルの民は奴隷として重い労役を課せられていました。しかし、モーセを通して神さまが、その地から導き出してくださり、束縛から解放されました。それから神さまが示された約束の土地に入るまでの40年間、昼は雲の柱、夜は火の柱が、彼らと共にあり、毎朝マナが降り、砂漠の中で生きていくことができたのです。それは見て触れることができる神さまの臨在の象徴的なものでした。しかし、出エジプトから40年後、約束の土地に入ってからは、雲と火の柱は消え、マナも止みました。それは、目には見えなくとも、あたかも主が見え触れているかのようにして歩む“信仰”によって生きる時代の到来でした。
 私たちの人生にも、昼もあれば夜もあります。どんなに真っ暗な孤独や悲しみ、辛さの夜を歩んでいたとしても、確実に神さまは、あなたと共に常におられます。これを信仰によって受けとめる時、本当の安息が訪れるのです。ハレルヤ!
 「昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった」(出エジプト40章38節)