ジョン・マックスウェルの「小さな始まり」という本に、こんなエピソードがあります。一万人が集まったある集会で、50ドルの新札を掲げて「この50ドルが欲しい人はいますか?」と言うと、あちこちから手が挙がったそうです。それで、次にその50ドル札を手でくしゃくしゃにして「まだこのお金が欲しいですか?」と聞くと、同じように手が挙がりました。今度は、そのお札を足で踏んで汚くしてから「まだこれが欲しい人?」と聞くと、それでも人々は手を挙げたそうです。
私たちは、踏みにじられ、問題だらけで、汚れているような存在であっても、それでも手を挙げ、あなたを求めておられるお方がいることを聖書は語っています。あなたが聖い存在であろうと、罪汚れた存在であろうと関係なく、あなたは神の目には価値ある存在だというのです。どこに何の価値もないものに投資する人がいるでしょうか? しかし神さまは、イエス・キリストを通して、価値なき存在であった私たちを、いのちの代価を十字架で支払って、買い取ってくださったのです。ここに私たちの存在価値を見出すことができるのです。これを「恵み」と言います。今、教会では出エジプト記から学んでいますが、人は一旦、失敗したり、挫折したり、落ち込んでみなければ、本当の神さまの恵みの世界を発見することは難しいのではないかと思えるようになりました。そして恵みがあるからこそ立ち上がることができるのです。
詩人であり牧師であった河野進さんの詩を紹介します。
病まなければ捧げ得ない祈りがある
病まなければ信じ得ない奇跡がある
病まなければ聞き得ない聖所がある
病まなければ仰ぎ得ない聖顔がある
おお、病まなければ 私は人間でさえもあり得ない
病気をはっきりと、一つの恵みと言い切っておられます。病気だけではなく、弱さはすべて神さまを発見できる恵みです。問題なく物事が進んでいる時も感謝。そうでない時も大いに感謝するべきでしょう。