一人の前途有望な学生が自殺して、その遺書には「思うままにならない人生に嫌気がさした。人生そのものがわからなくなった」といった内容が書かれていたそうです。悲しみに沈んだ友人数名は、自分たちが常日頃尊敬する老教授のもとへ急ぎました。ともに死を悼み、慰めてくれると思ったからです。遺書の内容に静かに耳を傾けた後、その教授は、案に相違して、語気も鋭く言いました。「そのような考えで死ぬなど、思い上がりもはなはだしい。人生とは、人が生きると書く。私のように六十年以上も生きていて、なお人生はわかっていないのに、たかだか二十年しか生きていない者に、わかってたまるか。また、人生は思うままにならないのが当たり前であり、それ故にありがたいのだ。人の思いというものの中には、良いものもあるが、よこしまなものもたくさんある。それがもし、人の思いのままになるとしたら、我々は安心して生きていられまい。思うままにならないからこそ、安心して暮らすことができ、また、より大いなる者への随順の気持ちも起きようというものだ」
この教授の言葉は、決して死者に鞭打つつもりで言われたものではなく、生者に、つまり、そのわからない、思うにまかせない人生を、今後も生き続けてゆかねばならない若者たちに向けて言われたのでした。「あんなやつ、死んでしまえ」という思いが、そのまま実現するとしたら、誰も安心して生きていることはできません。かくて人生が思うままにならないということは、考えようによってはありがたいことなのです。
一人の人間が個性的に生きる、その人らしく生きるということは、実は、このようなままならない人生を、自分なりに受けとめることで可能となるのではないでしょうか。(「幸せのありか」渡辺和子著より)
神さまが私たちに与えられたこの地上での人生は、私たちの願いばかりが叶うものではなく、天国へ入る為の準備期間で、テストされ、人格が整えられる天国予備校なのです。“人生は思い通りにならないのが当たり前”だと考えると、納得できることが多いのかもしれません。