第二次世界大戦が終わり、連合軍がアウシュビッツ収容所を掌握した後、部屋を点検していたアメリカ軍の兵士が、部屋の壁に書かれた言葉を見つけました。「神はどこにおられるのだろうか。」自分もそこにいたなら当然そう考えただろうと思いながら通り過ぎようとした兵士は、その下にある別の言葉を見つけました。「神はここにおられる。」そして、さらに下に書かれた賛美を見つけた彼は、それを何度も読み返しながら涙をこぼしました。「たえなる神の愛 ことばに尽くせず 高き星を越えて 低きこの地へと・・・神の奇しき愛 はかり知れず 永久に変わらぬ愛 ほめ歌いませ」(韓国賛美歌304番)
 その人は、時間とゆとりのある豊かな都市でこの賛美を黙想したのではありません。神はどこにおられるのかと問う苦しい質問がうっぷんのようにこみ上げてくるアウシュビッツ収容所で、苦しみと迫害の中で死に向かいつつ、これを黙想したのです。そして、「神の愛は語り尽くせないほど大きい」と告白したのです。
 私たちも、信仰の道を歩むときに遭遇する苦難に苦しめられる時があります。「一体どうして」という質問が怒りと共にこみ上げてきますが、神様は答えてくださらないように思えます。しかし驚くことに、「神様、一体どこにおられるのですか」という質問がこみ上げてくる瞬間こそ、神様が私たちと最も近くおられる瞬間なのです。
(「午後5時に来た人」ソン・ビョンジュ師の著書からの抜粋)
 
 先週、私たちの教会メンバーである隅谷光さんが89歳で天に召された。今から6年前に死ぬか生きるかの状況の中で、不思議な導きで私と出会い、信仰告白をして病床洗礼を受けられ、奇跡的に健康回復されて、聖書通読を始められました。天国を楽しみにしながらの幕引きでした。酸素のチューブが手放せないので、外に出歩くことは全くできなかったので、教会の方々もご存知ない方がほとんどでした。「孤独な人生だったのかな」と、ご遺体を前にして祈っているときに「一羽のすずめさえ、主は目をとめたもう」というゴスペルの歌詞が頭をぐるぐるしながら、「人目につかないような存在さえも目にとめているよ。だからこそあなたを送り、長老さんたちを送ったでしょ?」という主からのメッセージに感動しました。悲しみよりも、主の愛に涙した葬儀でした。ハレルヤ!