先週のローマ書9章からのメッセージには、「スッキリしました」「疑問が解けました」、またインターネットを見られた方からは「思わず聴き入ってしまいました」などの反応が多数あり、私自身も驚いています。
 「神の大権(摂理・御心)」と「人間の自由意思」は、互いに矛盾する内容でありますが、両方とも真実であることを聖書は前提にしています。例えば、イエスさまを裏切ったユダは、自分の意思で裏切ったのですが、使徒行伝やルカ福音書の中には、「あらかじめ定められていたこと」とも書かれています。実はこの問題は、数百年にもわたって、予定説に立つカルビン派と自由を強調するアルミニアン派によって論争が続けられ、今もなお決着はついていないのです。しかし、私たちの教会は、聖書にあることは、私たちの頭で理解できなくても、私たちの頭脳を遥かに超えた神の領域として捉えるという立場をとっています。
川端光生先生は著書の中でこう表現しておられます。
 聖書に記録されている記事には、人間の理性で受け取ることのできるものもあれば、不合理で矛盾していると思われるものもあります。しかし、人間の理性に不合理だからといって、神の権威がぐらつくわけでもありません。創造主は被造物の頭脳に収まるように、つまり人間の都合や理屈に合わせて存在しなければならない義務はないのです。この世界をどのような構造に創造するかは、創造主の自由です。ですから人間の理性で説明できないことがあって当然で、むしろ無理に説明をつけようとすることのほうが危険です。説明できないことを説明しようとすると、聖書にはないことや聖書に反すること、あるいは半分だけの真理を唱えるという誤りを犯してしまいます。
 神の大権と人間の自由の矛盾の問題もその一つです。人間の理解を超えたことは神秘として受け止める勇気も、時には必要です。
 もし、この領域に関して興味がある方は、先週12月10日の礼拝メッセージをお聴きになってください。Kansaicalvaryfellowship.com
 「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」(ローマ10:11