今から約470年前の1549年、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に入ってきた。その後に続いた宣教師たちは、日本語の厚い壁にぶつかって、とても苦労したそうです。やがて禁教令が発せられて、宣教師たちは国外に追放されるか、殉教を余儀なくされるのですが、彼らが死ぬ前、国へ帰る前に、これだけはどうしても日本人に伝えたいと願った一つのメッセージがあった。それは、今日でも、キリスト教がその中心思想とする「神は愛なり」ということであった。しかし、当時の日本では「愛」という言葉が違った意味で認知されていました。それは仏教では「愛」は「煩悩、執着」を表わしていた影響があったのでしょう。そこで宣教師たちは、「愛」の代わりに、やまと言葉の「ごたいせつ」を使ったのです。しかし、この「ごたいせつ」こそ、愛の本質を表現する言葉でもありました。それは、人間の一人ひとりが、性別、年齢、家柄、身分など一切関係なく、大切な一人であることを言い表し、人は自分の命を粗末にしてはいけないというメッセージだったのです。
今日の日本に「愛」という言葉は溢れています。ラインやメールではハートマークが飛び交っている。にも関わらず、何と多くの憎しみと無関心が横行していることでしょうか。毎日100人近い人たちが自殺し、いじめ、金銭目当ての殺人、衝動的な殺傷事件に、人々はもはや驚かなくなった。大変恐ろしいことです。それは相手の存在を「ごたいせつ」に思う心が欠如しているからだと考えることができるでしょう。偏差値にも、容姿容貌にも、弱さのあるなしに関わらず、利用価値、商品価値を度外視してでも、「その人」を大切にする心を育てることが求められている。教会こそが、その役割を担っていかなければならないでしょう。
イエス・キリストは、2千年前、滅びに向かう私たちを何とかして救いたいと願い、この地上に来てくださいました。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5章8節)
私たちは神さまにとって“ごたいせつ”な存在なのです。