牧師として今まで数多くの人たちとの出会いがありましたが、そこで悟ったことがあります。苦難と経験をしていない人は一人もいないということです。病気、家族の中の問題、愛する人との死別、経済的な困窮、職場、学び舎での失敗やトラブル、信頼していた人からの裏切りによる挫折など、さまざまな痛みを持ちながら生きているということです。どうして神さまは人にこのような試練を通らされるのだろうか?と考えてしまいます。
 田舎の家で火事が起こり、そこで牛を飼っている場合、牛舎にいる牛を引っ張り出すことが大変なのだそうです。いくら力のある人が引っ張っても、牛は頑として外に出ようとしないからです。しかし、びくともしない牛を早く外に引き出す方法が一つだけあります。それは牛の餌箱をひっくり返すのです。すると牛は「ここには希望がない。もう食べるものはない」と考え、自分の足で外に出るのです。牛にとって、居心地の良い、生きるための拠り所を失うことによって、他所へ移動するようになるというのです。これは危険回避のための常套手段だそうです。
 私たちも、「これだけは、このままにしておいてください」と必死にしがみついている何かがあると思います。しかし時として、神さまは、しつこくしがみついている餌箱をひっくり返される時があります。その時、私たちはとても辛く、苦しみます。しかしそれは、全幅の信頼を置くことができるのは、“主”のみであることを、失うことによって教えられる神さまからのレッスンなのです。また、神さまを知らない人々には、神さまに目を向けるきっかけとして試練を与えられることもあるでしょう。でも、その背後に神さまの愛があることに気づくことができるならば、餌箱にこだわらなくても力強く生きることができるようになります。

 「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か・・・どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8章35・39節)