スペインの美術館に、ピカソが他界する直前に病床で描いた絵があります。それは、小さな紙に鉛筆でスケッチしたものです。もしそれをスケッチした人が、ピカソでなかったなら、その紙はすでにゴミとして捨てられていたことでしょう。しかし、偉大なピカソの手によって描かれたもの故に、その小さな見栄えのしない紙が立派な芸術品として扱われ、大切に保存されているのです。また何年も前に、アメリカの今はなきスーパースターの使用済み歯ブラシが、庶民には手の届かない高値で落札されたというオークションの記事を読んだことがあります。このように、使い物にならないような紙一枚であっても、古い歯ブラシであっても、誰の手によるものなのか、誰の手の中にあったものかということによって、ゴミとして捨てられることもあれば、偉大な芸術品として、価値のある物として保管されることもあるというので驚きです。
 私たちの人生も同じです。誰の手の中にいるのか、ということが重要なポイントです。私たちは、永遠なる創造主である神の手の中にいるとき、その人生には意味が出て輝きます。色々な考え方はあるとは思いますが、私は、どんなに多くの財や権力を手にしても、神抜きの人生であるならば、それはゴミのようだと思っています。かなり過激な表現かもしれませんが、ただ自分のために生き、自分の肉のために生き抜いて、やがては墓地に葬られ、朽ちて終わるような人生ならば、それは朽ちてなくなるゴミと本質的には、全く違いがないと感じています。
 この地上での人生は長くても百年です。学校のこと、就職のこと、結婚のこと、人間関係のこと、経済のこと、健康や老後のことなど、この世では心配することが山積みです。確かにそれらの問題解決もしていかなければならないでしょう。しかし、どれだけの人が、死後の世界について心配しているでしょうか? 聖書には、肉体の死後、「永遠の生命」と「永遠の死」の世界があって、そのどちらかに入ることが決まっているというのです。もしこれが本当だとするならば、“この世”以上に続く“永遠”について、もっと考えた方が良いのではないでしょうか?