聖母マリアも「心に納めること」を知り、かつ実行した人でした。藪から棒の受胎告知に始まり、神の子であるイエスが十字架上で悲惨な死を遂げるのを見守るまでの30数年間、マリアの生涯には、不可解なこと、「言えば愚痴になる」ことが沢山あったと思うのです。マリアはそれらのことを「ことごとく心に納めていた」と、聖書は記しています。
 このように、誰にでも他人にいえない悲しみや苦しみがあるのだ、そういうものを抱えて生きているのだと思う時、私たちの相手に対する思いとまなざしは優しくなるのではないでしょうか。
 そして自分もまた、すべてを洗いざらいぶちまけることなく、聖母マリアに少しでもあやかって、愚痴になることを黙っていられる人になりたいと思っています。それは決して、自分の感情を抑圧してしまうことではなくて、「神さまのなさることに間違いはない。私たちの力に余る試練をお与えにならない」と、神の愛を信じ、納得して、出来事の一つひとつを“胸にあたため、花に変えて”神に捧げることなのです。
        (「目に見えないけれど大切なもの」渡辺和子著より) 

 答えや解決をすぐに得たいと願うのは私たち人間の特徴です。しかし、すべてのことが“すぐに”理解できるものではありません。理解することに執着しすぎると、それがストレスになります。でも、神さまはそんなに急がれていないようであります。この何千年もの歴史を通して、ご自身をあらわされておられるお方ですから、かなり気長にならないと神さまのペースには付いていけません。「忍耐」という言葉には厳しさを感じますが、「胸にあたためる」という表現は受け入れやすく感じます。
  
  神のごとくゆるしたい
  ひとが投ぐるにくしみを
   むねにあたため
  花のようになったらば
   神のまえにささげたい (八木重吉)