一人のクリスチャン男性が、何年も前に最愛の奥様に先立たれてしまいました。彼はショックで何年も途方に暮れて、思い出すたびに涙していました。ある日、自分の傷や痛みばかりに目を向けないで、他者の痛みに目を向けるように考えを変えました。傷ついている人たちを助けたいと思うようになりました。しかし何をしたらいいのかわかりませんでした。なぜなら彼は伝道者であるわけではなく、普通に電話会社に勤めて退職したばかりの人だったからです。彼は考えました。「私が助けることができるのは、肉親を失った人たちを励ますことができるのは、自分でもわかる。よし、自分と同じ経験をした人たちを慰めよう!」それから、彼は誰も頼んでいないし、招待もされたわけではなかったのですが、教会の葬儀に顔を出すようになりました。ただ現れて、悲しみ落ち込んでいる人たちに慰めの言葉を一言かけて帰っていくのです。時には哀れみを示して、彼らの話し相手にもなりました。そうこうしている内に、彼自身の傷が癒されていきました。そればかりではなく、何年かしてからその働きが教会でも認められて、「慰めのミニストリー」の代表者として、教会のすべての葬儀を執り行うスタッフとして働くことができるようになったのです。彼は悲しみに暮れている時に、誰か自分を元気づけてくれはしないかと待っていたのではなく、反対のことをしたのです。そして彼が他の人の必要を助け始めたときに、状況が変わり始めました。
私たちは、「受けないと他者に愛を与えることなどできない」と考えますが、聖書には、私たちが神を愛したのではなく、まず神が私たちを愛してくださった、とあります。わたしたちは神に愛されるためにではなく、すでに受けている神の愛に応えるために生かされているのです。
痛みや悪を乗り越える方法は、善を行なうということです。傷をいたわるだけでは、乗り越えることはできません。復讐して、あいこになったとしても、不正を乗り越えることはできません。イエス・キリストこそが、栄光を受ける道の模範を示してくださいました。私自身も、その模範に従うことができるよう、聖霊さまの助けを日々祈っています!