ルカによる福音書には、ある一人の女性の姿が描写されています。彼女は、「その町で罪の女であった」というのです。恐らく売春婦であったのでしょう。イエスさまがパリサイ人の家で食事の席につかれていたとき、泣きながら入ってきて、その足元に寄り、涙でイエスさまの足を濡らし、自分の髪でそれをぬぐい香油を塗ったのです。見ていた人々は、「もしこの人が預言者であるなら自分が触っている女が誰だか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」と思っていました。
 遠藤周作さんは、この出来事についてこう解説されています。
 この罪の女性は、恐らくイエス・キリストの話しに耳を傾けながら、ふと幼年時代のことが心に浮かんできたのだろう。それは、自分を金で買った養父にたたかれ、泣きながら夜をあかした日のこと。しばらくしてその養父に売られていやしい仕事を始め苦しんだ日のこと。そして体中に吹き出物をつくって、足を引きずりながら、子供たちに石で追われながら、村から村、町から町をさまよい、やがて荒野で死んでいく、広場で見た売春婦であった老婆のように、自分も同じような運命をたどるであろうことを想像しました。しかし、もはやこの罪の仕事をしていく以外に生きていく方法はないと、自分の身も心も傷つけながら今日まで生きてきたのであろう。というのです。しかしイエスさまは、この女性の落とした涙を通して不幸な半生を全て理解されました。そしてこの女性に対するイエスさまのかけられた言葉は「あなたの罪は許された。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい」
 
 イエスさまは、足に落ちる涙、衣にそっと触れた指先だけで、その人の人生のすべてを悟られるお方です。誰もあなたのことを理解できなくても、あなたのすべてを理解し受け入れてくださっている安心感。人は若い時代、将来のことで悩み、中年になれば、老後のことを心配し、壮年になると「どのような死を迎えるか?」ということで、悩むものです。  
地上での大きな悩みは、天国ではちっぽけな事だったと気付くのです。