1549年、フランシスコ・ザビエルは日本にキリスト教の信仰を伝えました。当時、迫害に遭っても、国外追放を命令されても、どうしても日本人に伝えたかったことは「神は愛である」ということでした。現在残っている文献によれば、言葉で苦労した宣教師たちは、それを「デウスのごたいせつ」と訳しました。日本人の考えている神との違いを示すために「デウス=天主」を用い、当時仏教では「愛」という言葉は、情欲とか執着という意味合いを持っていたので、「ごたいせつ」という大和言葉を用いたそうです。一人一人は「すでに神さまに愛されている、ごたいせつな存在」ということ。これは私の牧師としてのライフメッセージでもあります。勿論、蒔いたものに対する刈り取りも伝えなければならない時もありますが、それよりも何よりも、「あなたは神の目には大切な存在」であることを伝えなければならないと思っています。なぜなら、私たち人間が罪の中に落ち、この地上で悩みながら生きなければならなくなったことも、イエスさまがこの地上にきて、十字架にかかって罪の身代わりになってくださったことも、すべては「神が愛である」ことを伝えたかった故の神さまの壮大なご計画であるからです。
 進化論も創造論も、科学的根拠は何もありません。前者に関しては、京大名誉教授で文化勲章受賞者・今西錦司さんは、生前81歳の時に、「私なりの進化論から、ダーウィンと異なり、進化という壮大なドラマも科学ではとらえきれないことがわかった。」と言って科学者廃業宣言をされました。どちらも信仰に相当するものですが、進化論では、命の尊さを教えることはできません。なぜならば「偶然の存在」は、何の価値も見いだせないからです。だから人間は、様々なものを手に入れ、他者と比較して、自分の存在価値をアピールするようになりました。後者は、神の存在があっての自分ということから考えるならば、偏差値、家柄、職業、能力、容姿、財産、障がいの有無にも一切関わらず、神のまなざしには「ごたいせつ」に映っているということなのです。一人ひとりのために、キリストが十字架にかかり死ぬほどに「ごたいせつ」なのです。
 
 「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5章8節)