とある学校で水泳のクラス対抗リレーがありました。あるクラスで3人まで決まったのですが、あと1人が決まりませんでした。その時に、「あいつがいいや」と、みんなが言い出して決めたのが、A君という身体が不自由な生徒でした。なぜ彼を選んだかというと、変な格好で泳ぐのを見て、みんなで笑ってやろうということだったのです。当時、その学校は非常に荒れていたようです。さて、そのクラス対抗リレーの当日、三人が泳いで、最後にA君が飛び込んで泳ぎました。予想通りの格好で泳いでいるA君を見て、皆が笑いました。その時、背広を着たまま、プールに飛び込んで、そのA君の横について、「しっかりしろ、もう少しだ、がんばれ」というふうに励まし続けた人がいました。それは校長の東井義雄先生でした。その生徒がゴールにたどり着いた時には、今まで嘲笑していた人たちが粛然となりました。そして誰一人声を出す者も笑う者もいなかったということです。校長先生は、生徒たちの笑いの的になっているA君への視線を、自分に向けるかのようにして、そればかりかA君を励ましながら一緒にゴールしたという感動の実話であります。
 先日、私はある牧師と電話で話していました。その時、問題ある若者をその先生の教会で受け止めるという話題があり、私は「大丈夫かな?」と心配したのですが、その先生の次なる言葉に目が覚まされました。「この僕が救われ変えられたのですよ!」その先生は、高校中退してヤクザまがいの生き方をしていましたが、救われ変えられ、献身して牧師になったのです。そのことを知っていた私は、不信仰な自分に反省しました。「大丈夫かな?」ではなく「大丈夫!」なのです。神さまは、人々から後ろ指さされるような生き方しかできない人にも、問題児であっても、人々から笑いものにされるような者であっても、神さまを味方にした人生は祝福されるのです。どんな人をも変える力が神にはあるのです。 
 校長先生が背広を着たまま笑い者にされている生徒のためにプールに飛び込む・・・これも感動ですが、それ以上に天地宇宙を造られた聖なる清い神さまが、このドロドロとした足の踏み場もない罪にまみれ、悪魔に嘲笑されているような人生しか歩めない私たちのところまで下りてきてくださって、共に歩んでくださる・・・これ以上の感動の奇跡はありません。あなたもこの神の愛の対象であることを忘れないでください。