遠藤周作さんが、一人の少女の詩を紹介している。
  わたしのノドが痛い時 あの子のノドも痛み
  わたしが夜 セキをする時 あの子も眼をさましてセキをする
  わたしがママから叱られて泣く時 
  あの子もわたしと一緒に泣いている
  夕陽にうつるわたしの影法師のように 
  あの子はいつもわたしと一緒だ

 ここに出てくる「あの子」とは、少女にとってはイエス・キリストだったそうです。ノドの痛みを癒すのでもなく、セキを止めてくれるのでもないが、一緒に痛み、一緒にセキをし、一緒に泣いてくださる。キリストは奇跡を行うことによってではなく、共にいることによって愛を示す姿が、この11歳で死なねばならなかった少女を、どれほどその寂しい病床で慰め、力づけたことでしょうか。共にいてくださるありがたさであります。

 もう一つ星野富弘さんの詩をお分ちします。
  誰がほめようと 誰がけなそうと どうでも良いのです
  畑から帰ってきた母が でき上がった私の絵を見て
  「へえっ」とひと声 驚いてくれたら それで もう 十分なのです

 私たちは世の中からの評価が気になります。注目され、称賛されたいという願望があります。たとえ、世の中の目にも留まらず、誰にも評価されなくても、あなたを唯一称賛してくださるお方がいます。その方こそイエス・キリストです。このお方が、あなたの傍らにいつもいて、あなたという存在に対して「へえっ」と、驚きの評価をしてくださっていることを信じ、それだけで満足できるようになるなら、その人の人生は、本当に大きく変わってくるでしょう。

 「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」(イザヤ書41:10)