榎本保郎先生は、一日一章の書物の中でこう述べておられます。
「私たちが神に用いられるとき、持っている以上の働きをすることができる。将棋の名人が優勝するのは、将棋の駒がりっぱだから優勝するのではない。駒の良い悪いではなく、さし手がじょうずかそうでないかで決まるのである。私たちは駒である。私という単なる人間の感情や利害や思いで進んでいる間は、その駒がたとえどんなに高価なものであっても、決して勝利できないのである。逆に、紙に書いて作ったような駒であっても、名人がそれを進めていったならば、勝利することができるのである。大切なことは、誰に進められ誰にさされて自分の人生を歩んでいくかということである。この決断こそ私たち人間の責任なのである。
 駒はさし手のままに進まねばならない。時には敵の陣地に乗り込み、犠牲になることがあるかもしれない。それでも良し、と絶対にさし手を信頼していかなければ、私たちはその栄光にあずかれないのである。だから与えられた確信というものをしっかり持ち、最後まで持続することが最も大切なのだと、御言葉は教えているのである。」

 いつ読んでも励まされる文章です。結局、私たちの人生は、どなたに任せているかにかかっていると言っても過言ではありません。任せるということは、共同でするということではありません。それは100%信頼して、その人に預けるということです。神さまに委ねるということは、私たちの命を預けるということです。そしてそれは、「神さまが、ご自分の計画を進めるために、私をどのように使用されても構いません、たとえそれが犠牲となることであっても、それがあなたにとってのベストであれば、そのようにしてください!」という意味です。教会では、簡単に「神さまに委ねます。お任せします。」と告白しますが、その意味は、人間の側には、必ずしも「楽な心地よい道」が与えられるわけではないことを覚悟しなければならないということなのです。もし、神さまの最善に委ねることができたら、もう何も恐れるものはありません。最強の神さまの目的のために「私」は使用されるのですから、それ以上の喜びはありません。「神に委ねる」ことを全うされたお方は、イエス・キリストです。「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされた」(ヘブル書5章8~9節)