ある牧師が、聖書の時間に質問を受けたそうです。「イエス様は、どうしてイスカリオテのユダのような人を弟子にされたのでしょうか?」この突然の質問に、牧師は適切な答えができず、少し研究してから答えると口をにごらせました。その後、その牧師はみことばを詳しく読み、注解を読み、祈ったりしましたが、満足のいく答えが得られませんでした。そんなある日、この問題についてもう一度黙想していたとき、ふと他の質問が心に突き刺さりました。「なぜ主は、私のような人間を主のしもべとして選ばれたのだろう。」牧師は、自分に対するこの衝撃的で挑戦的な質問に言葉を失いました。溢れ出る涙を抑えることができませんでした。忠誠を尽くせず、最善も尽くせなかったことへの後悔が一度に押し寄せてきて、胸が張り裂けそうでした。名誉やお金や人気に染まった自分の姿は、まさにイスカリオテのユダの姿でした。イスカリオテのユダを非難の対象にしている時は、答えが得られなかったのに、自分にその非難の目を向けたとき、ようやく悟りました。主が間違って選ばれたのではなく、選ばれた者が罪と咎によって生きていることが問題だったのです。  
 その日以来、この牧師は変化し始めたそうです。自分の改革から始めると、周りも変わり、ついに教会全体が変わったそうです。

 私たちは、球場の観客席に座って、プレイヤーのミスを指摘し、非難する毎日を送っています。世の中は、それがエンターテインメントのようになっています。毎日のようにして、芸能人や政治家批判をしています。評論家は、全く非の打ち所のない人生を歩んでいるのでしょうか? 売春で捕まった一人の女性が、イエスさまの前に引き出されました。人々は石を握って言いました。「法律では、『このような者は、石で打て』とありますが、あなたならどうしますか?」イエスさまの返答は、「この中で罪のない者が打ちなさい」その言葉を聞いた人々は、年寄りから順に石をその場に置いて去ったと新約聖書に記録されています。
 私たちはただ神さまの恵みによって選ばれ生かされているのです。それに応える生き方をしたいですね。まずは自分の改革からスタートです。