ある男性が川辺にいました。大雨が降って川が増水して、人々は避難を始めました。しかし、その男は言いました「私は、神に愛されているから、祈っていれば、どこかへ移されるから大丈夫です。」大雨は降り続いて、川の水位が上がりました。そしてボートに乗った人が男に声をかけました「そこの人!避難しなければ危険だぞ! すぐにこのボートに乗りなさい!」しかし男は答えました「私は神に愛されている。祈れば必ず助けてくださる」しばらくしてヘリコプターが飛んできて、メガホンで叫びました「はしごをたらすから、それにつかまりなさい!」しかし男は言いました「神に祈れば、安全な所へ連れて行ってくれるから大丈夫!」やがて男は溺れて死んでしまいました。
その後、彼は天国の門に立ち、神に面会を求めました。「私は、あなたに祈りを捧げましたし、愛されていると思っていました。なのに、どうしてこんな目にあわなければならないのですか?」神は言いました「私はあなたを助けるために、無線の連絡とボートとヘリコプターを差し向けました。なのに、どうしてあなたはここにいるのか?」
 もし、この例話の意味を理解することができれば、私たちは、次のレベルへ上がることができます。すなわち、神さまは、一分一秒たりとも、私たちをほったらかしにされることはないばかりか、私たちにとって、いつでも「良い神様」なのです。私たちは、神さまが直接何かをしてくださることを期待し、目に見えなければ、まだ助けられていないと錯覚しますが、実は、私たちの瞬間瞬間は、神さまの御手の中にあるのです。神さまは、直接的よりも他者や様々な出来事を通して、私たちに語りかけておられることの方が多いように思います。
 当たり前と思える毎日の中に、感謝すべきことは沢山あります。寝返りをうてるだけでも感謝。食べることができることも感謝。喧嘩する相手がいることも感謝。この神様の内に、生き、動き、存在させていただいている恵みを、もっと敏感に感じるなら、すべてが新鮮で輝いて見えるようになります。「主にあって喜びなさい。」(ピリピ3章1節)