私たちが他者に対して優しくなれる方法があるとするならば、このような意識を持つことが良いのではないかと思われます。それは、「他者は神さまから私に遣わされた存在」と意識することです。
 トルストイの「靴屋のマルチン」は、そのことを教えるストーリーです。靴屋をしていたマルチンが、ある夜、夢を見ます。「明日はあなたの家にいくから」と神様が言われました。次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外を見ていると、寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはそのおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。それからマルチンが外を見ていると、赤ちゃんを抱いた貧しい母親が外を歩いていました。それを見て、マルチンは可哀想になり、出て行って、その母子を家に迎え、ショールをあげました。しかし、なかなか神様は来られません。今度は、おばあさんのカゴから一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなして、一緒に謝りました。そうして、一日が終わりましたが、とうとうマルチンが期待していた神様は来られませんでした。「やっぱり、あれは夢だったのか・・・」とガッカリしているマルチンに、神様が現れて言いました。「マルチン、今日はお前の家に行ったよ。」その言葉と同時に、雪かきのおじいさんや貧しい母子やリンゴを盗んだ少年の姿が次々と現れました。
 神様が目に見える形で、私たちの前に現れたら、わかりやすくて、私たちはお従いしやすいですが、神様はそういう現れ方はなさらないのです。私たちの周りにいる「あの人もこの人も」、実は神様が遣わされた人、いや神様ご自身だと考えるならば、親切にしないわけにはいかないでしょう。赦さないわけには、愛さないわけにはいきません。皮膚病で苦しんでいる人をさすり、死を間近にしている人たちに惜しみなく親切を尽くしたマザー・テレサも、かつてこうおっしゃっておられました。「この仕事は、いくらお金を積まれてもできるものではありません。ただこの人たちを通してイエスさまに触れているという確信がある故に可能なのです。」 
 神の存在を抜きにして、恵みの人生は絶対にありえないのです。