アメリカのある教会であった出来事です。大学で行われた、クリスチャンの集会でジムという大学生がイエスさまを心に受け入れました。彼は少し変わった青年で、いつも同じ穴のあいた汚れたジーンズをはいて、いつも同じTシャツを着ていました。頭の髪もグチャグチャでしたが、彼のスタイルだったのです。日曜日に教会へ行くように勧められたので、学校の通りの向い側にある教会へ足を運びました。ところがその教会はとても保守的な堅い教会でした。礼拝に来る人たちは、みな正装していました。ジムが教会へ入った時は、時間ギリギリでしたので満席でした。彼は後ろの方から、空いている席を探しながら前へ進んで行きました。みんなの目がジムに集中しました。なぜなら頭はクシャクシャで、いつもの汚いティーシャツと穴の空いたジーンズ姿で、その場にはそぐわない格好だったからです。とうとう空席が見つからないまま講壇の前まで来ました。そして彼は講壇の前の床に座ったのです。それは大学の講義を受ける時、イスの空きがない時はいつも床に座っていたからです。それを見た、後ろに座っていた80歳位の髪の毛をキッチリと分け、3ピースのスーツを着た長老役員が、立ち上がって前へ歩き始めました。みんなは、その長老が汚い格好の大学生をつまみ出してくれることを期待していました。ところがその長老役員は、大学生のジムの所までくると、一緒に床に座ったのです。ジムはもう一人ぼっちではありませんでした。そこでその教会の牧師は話しました。「今日、私がする説教は数日で忘れるでしょう。しかし、今見たメッセージは一生忘れることはないでしょう!」拍手喝さいでありました。もし腹を立てて長老がジムをつまみだしていたら、彼は一生救われなかったでしょう。
 イエス・キリストは、神を知らず滅びへと向かっている私たちを裁くために来られたのではなく、私たちに寄り添うために、この地上に来てくださいました。そして私たちが受けるべき罪の罰を身代わりに受けてくださったのが十字架の姿でした。犠牲がなければ本当の平和はありません。そしてそこに愛があるのです。これがHappy Lifeの入口です。