日本人は、「神が人間を創造した」という話を聞いても、違和感をもたれる人たちが多くいます。なぜなら、小学生のときから「人間は進化した」と教え込まれていて、それが当然のように考えているからです。
 進化全体を説明する唯一の要因は「偶然」です。揺り返す原子のスープから「偶然」にアミノ酸が作られ、その「偶然」の繰り返しによってDNAが合成され、さらなる「偶然」によって生命を持つ細胞が形成され、後はその生物がひたすら「偶然」によって進化を遂げていきました。この「偶然」は、箱の中に車の全ての部品を入れて、揺すぶっていたら車が完成しましたという計算上不可能としかいいようのないほど小さな確率を次々と突破して進化していったというのです。しかし「偶然」は「無目的」です。学校でいくら人間の命は尊いと教えても、人間が物質から偶然に化学進化した存在であるかぎり、説得力は全くありません。物質から生まれ、長くても100年そこそこ生きて、やがて無に帰っていくだけの存在の何が尊いのでしょうか? 人間は「コンピューターを作る」「直立歩行する」「知能が発達している」「言語をもつ」「道具を使う」から尊いとは言えません。それは自己尊厳を正当化するために考え出した人間の主張にしかすぎません。鳥が「空を飛べるから人間より尊い」と主張しているのと変わりません。何を根拠に人間の命は尊いと決めたのでしょうか? それは、ただ死ぬのが怖いからです。自分の命を守るために命が尊くあってほしいのです。それ以上の根拠はありません。
 では聖書は人間の存在価値について、どのように説明しているのでしょうか? 人間は神に似た人格を持つ最高の存在として造られ、神に愛されていること、これが人間という生き物の始まりで、神の目には「極めて良い」という完璧な人格と体をもってスタートしたのです。創造主が人間を尊いものとして造り、尊いと思い、尊く扱ってくださるから、人間は尊いのです。創造者であり絶対者である「他者」に尊いと宣言されること以外に人間価値の絶対的な根拠はありません。

 “あなたは、わたしの目には高価で尊い”(イザヤ書43章4節)