シェークスピアでしたか、人生は芝居なんだ。舞台の上で王様をしたからいい役者ではないし、舞台の上で乞食をしたから悪い役者ではなくて、大切なのは王様を王様らしく演じたか、乞食を乞食らしく精一杯演じたかだと言っています。人生の終わり、舞台の幕が下りた時に問われるのは、何をしてたかではなくって、その役割をいかにその役になりきって演じたかということなのです。確かに生きている間は、王様を演じていれば良い洋服が着られますし、王妃様になっていれば冠がかぶれますし、みんながかしずいてくれる。それに比べて、自分が乞食の役だったとしたらば、汚いボロをまとってみんなからバカにされて、食うや食わずの生活をしてなければいけないかも知れない。その辛さは、一生の間あるかも知れないけれども、一生の終わりに、幕が下りた時に問われるのは、何をしたかではないのです。一生の終わりに問われるのは、何タラントもらったかではなくて、それを何タラントに増やしたかということなのです。そう思ったらあんまり他人をうらやまないですむかも知れません。勝負はそれをどれだけ増やすかにあるんですから。
(渡辺和子著書より抜粋)
 
 「どれだけの物を手に入れたか?」「どれだけの成功をおさめたか?」ということに注目が集まってしまうこの世の中で、私たちはもう一度、それで本当にいいのか?ということを問わなければならないと思う。「役に立たない障がい者は生きている価値はない」という理由で人を殺すという事件が最近発生しました。でも実際に殺人はしなくても、同じように考えている人間がいるという現実に唖然とします。不公平に思えますが、神さまは、個々に違うタラントを与えられました。ところが、それぞれの違うタラントが、支えあって人間社会が成り立っているということに不思議を感じます。神さまは、それぞれの人間に「役」を与え、その人らしい生き方で神さまの栄光を現したかをご覧になっておられるのです。
 「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ9:3)