日本人が、他国の人たちから不思議に思われていることの一つが、「自分には特定の宗教はありません」と言いながら、結婚式はキリスト教式で葬儀は仏式、初詣は神社へ行くといった人たちが多いということです。良い言葉で表現するなら、宗教的には非常に寛容だと言えますが、悪く言えば非常にいい加減な国民だと言われています。そしてどの神さまも平等に扱おうとする民主主義の精神が、そんなところにまで行き渡っています。そしてその神々の中から、自分の考え方や経験や感性や好みに合ったものを、その時その場に合わせて自分の神として利用するのです。人間が神に絶対無条件的に仕えるというより、人間が神々に条件をつけて、人間様の要求に神々を従わせているのです。ですから、神々を拝む目的は当然、物理的、精神的ご利益や保護を引き出すためにあります。
日本のある村では、七十数カ所もあった神社を経費節減のために4箇所にまとめてしまうという大規模改革が行われました。実際はつまらない神を整理してしまったのです。神々も人間のさまざまな要求に答えなければならないので大変です。要求に答えられなければ捨てられてしまうのです。いろいろな名前をつけられ、木や石、紙や金属の中に閉じ込められ、同じ言葉の繰り返しを聞かされ、人間に奉仕しなければなりません。結局、宗教とは人間の都合に合わせて作られたものと言われても仕方がないようです。
キリスト教は宗教ではないとクリスチャンたちが言いたがるのは、宗教が人間を起源とする教えだとすると、キリスト教は神ご自身を起源とする神が主役であり、神が中心になっているからです。人間の側に主導権がないことほど不利益はないでしょう。しかし、よく考えてみるならば、この世の不利益は、すべて人間主導の世界から発生しています。アダムとエバがエデンの園から出てこの世に生きるようになったことから、今の時代の様々な問題や争いに至るまでの全ての悪の根源は、人間の自己中心から起こっているのです。そろそろ自分主導を諦めて、神さま主導に切り替えてみられたらどうでしょうか? God is good all the time!