ある新人俳優が、一緒に出演していた先輩の俳優について語ったことを聞いたことがあります。当時、その先輩は、自分の撮影の時間がまだまだ先なのに、誰よりも早く来て待っていました。新人の俳優が不思議に思って、どうして時間に合わせて来ないで、毎回、早く来るのかと聞くと、その先輩は「待っている時間は、意味のない時間ではなく、現場の中で考え、準備する時間なんだ。人生というのは、何かを直接する時間よりも、そのことのために待つ時間のほうが多い。待っているうちに、じっくり熟していくってわけだ。人生っていうのは、みなそういうものだ」と答えたそうです。旧約聖書に登場するネヘミヤは、廃墟となった故郷のために4ヶ月祈りました。そして約4ヶ月が過ぎた後、王に助けを求めることのできる機会が与えられました。彼にとって、4ヶ月は血のにじむような時間でしたが、なくてはならない時間でした。事を成熟させる時間だったのです。私たちにもそのような時間が必ずあります。あらゆる思い煩いや不安が続いても、神様はすぐに答えてくださらないときがあります。私たちは待つしかなく、その時間は意味のない時間のように感じられます。あらゆる考えが行き交う中で、挫折と絶望、あきらめなどが深まっていく時間もその時です。その時間を通して、私たちは低くなり、謙遜になります。
ですから、その時間は神様が私たちをじっくり熟させる時間であって、決して無駄な時間ではありません。後になって初めて、それが最も尊い時間だったことがわかるようになります。いつものように自分の仕事を忠実に行ないながら、待たなければなりません。それは決して無意味な時間ではないのです。 (「祈りが始まりだ」チェ・ヨンシク著より)
聖書は、絶えず「待つ」ことを教えています。旧約時代には、救い主の到来を待つことが要求されました。そしてイエスさまは、天にお帰りになる前に「エルサレムで、父の約束を待っていなさい」と言われました。神さまからの答えをいただくまでの時間は無駄ではありません。祈りに対する答えは、実は待っている時間そのものなのかもしれません。