日本人男性は特に、物事を合理的に考え、頭で理解できないことは、なかなか受け入れることができない傾向にあるようです。ですから、何か良いことが起こっても、悪いことが起こっても、それを「偶然」とか「たまたま」と考えます。進化論という仮説が日本の教育の中では教えられ、「偶然にそうなった」と教え込まれたら、そういう思考になっても仕方がないのかもしれません。日本人は、神の救いをお話すると、まず「神がいることを証明してほしい」と要求してきます。私が「では、神がいないことを証明してくだされば、お話しましょう」と言うと、それはできないと答えられます。古くから神の存在証明は数々試みられてきましたが、客観的な証明は打ち立てられていません。だからといって、それで神が存在しないことになるのではありません。同様に、「神が存在しない」ことを客観的に証明した人もいないからです。神の存在にしろ非存在にしろ、その決定的な証明方法はないのです。それは、世界の科学者・知識人に、神を信じる人もいれば、信じない人もいるからです。  
 存在しているものがどのようなものかを聖書や体験や創造世界の秩序などからを説明することはできても、「それが存在するかどうか」を証明することはできません。神は存在するかどうかは証明の対象ではなく、信仰の対象だからです。時々、「愛なる神がいるなら、なぜ私はこんな目に遭うのか?」と言う人々がいます。しかし、それは「無条件に人間を甘やかす神」は存在しないことを証明しただけで、「真の愛なる神」の存在を否定する証明ではありません。人間が頭の中で勝手に想定した神が理屈に合わなかったということにすぎないのです。それは人間の理性を越えた神が存在する可能性を否定したわけではないのです。
 神の存在も非存在も証明はできないのですが、お得感から言えば、神の存在を信じる方に軍配が上がります。なぜなら、神の存在を信じる人々の人生が変えられ、天国へ行ける確信のもとで生きることができるからです。しかも私たちの罪の代価を代わって十字架で支払ってくださる愛に触れたら、たとえ辛いことがあっても感謝できる毎日になるのです。