セムナン教会のキム・ドンイク牧師は、ガンにかかって大きな手術を受け、3年余りの闘病生活の後、天国に召された。先生が闘病生活の後、天国に召された。先生が闘病生活をされながら書かれた説教文に、このようなものがある。
「手術の後、危険な状態の中で、朝起きるとまず『神様。今朝も目を開けることができて感謝します』と祈った。この祈りしか出てこなかった。」その通りだ、今この瞬間にも、生きていることはどれほど感謝なことだろう。愛する夫、妻が今日も病に伏したり、死に至ることなく生きていることを神様に感謝しよう。子どもたちがいのちを与えられ、健康に生活していることに感謝をしよう。勉強が少しできなくても、お金をたくさん稼ぐことができなくても、大きな権力を持てなくても、あまり親孝行でなくても、その人が生きているだけでも自分に喜びと幸せを与えてくれることを悟って感謝をしよう。不毛な人生で、霊的に沈滞している人たちの共通点は、彼らの生活に「感謝」という言葉が抜けているということである。
 幸せは持っているものに比例するのではなく、感謝に比例する。自分の人生のすべてのことを感謝だと感じられれば、それに比例して幸せも大きくなる。ではどのようなことに感謝することができるだろうか。お金をたくさん稼ぐこと、持っている不動産の値段が何倍にも跳ね上がったこと、商売がうまくいくこと、良い学校に合格したこと、就職したこと、進級したことなどは、すべて感謝する対象になる。しかし聖書は、このような感謝は誰にもできる感謝だと言っている。では、私たちがささげることのできる最高の感謝とは何か。イエス・キリストを送ってくださったことにより、死から永遠のいのちに移されたことよりも尊く、価値のある贈り物が他にあるだろうか。だからこそ私たちは、イエス様の十字架を見上げて感謝しなければならない。これがすべての感謝の基本であり、始まりである。(ジョン・クゥアン著より引用)

 全ての人は、神に愛され、神の手の中で生かされています。感謝!