愛とは、相手がうまくいくようにすることであり、相手が喜ぶようにすることです。そして相手が成功すれば、妬ましく思うのではなく、たとえ自分が犠牲になっても心から喜べることが愛の姿です。そのことを表している子どものある発言があります。「親は、苦い味のものが好き。つぶれたイチゴを食べて、ご飯は冷たいのが好き。不思議なことに、自分は焼き魚の腹わただけを食べて、おいしい身は私にくれるの。」親は、おいしいものを知らないのでしょうか? ただ子どもに美味しいものを食べさせたいから自分は残り物を食べるのです。数年前、私も同じような体験をしました。教会の長老さんといっしょにある信徒さんの家庭訪問に行った時でした。いちごが出されたのですが、上に乗っているものだけが新鮮で、下のものはつぶれていました。ところが長老さんは、つぶれたものばかり食べるのです。私にいいものを食べさせるためでした。これが愛の姿です。
 栗の村に住んでいるおじいさんの話です。秋になって栗がたわわに実ると、週末に若い男女がやって来ます。若い男女は、大きい実を勧め合うそうです。「大きいから、これ食べて。」すると、残るのは小さい栗だけです。しかし、中年夫婦が来ると、何も言わずに、相手に大きい実を食べさせようと小さいものから食べるので、残るのは大きいものばかりです。これも愛ですね。

 十字架は、ただのアクセサリーではありません。命をかけた私たちに対する愛の証なのです。私たちは、死後の世界において自己中心に生きてきた刈り取りをしなければならないのですが、私たちが、永遠の死ではなく、永遠の生命を受けて欲しいと願った神さまが、イエス・キリストとしてこの地上にきて、本来私たちが受けなければならなかった罪の罰を、全部、十字架上で引き受けてくださったのです。それは、私たち人間がうまくいくこと、喜ぶことを、喜びとしてくださった愛の姿です。
 私たちは、愛の中に生かされていることを忘れてはならないのです。