アメリカでは、あらゆる犯罪が多発していますが、その中でも聞いて笑ってしまうような事件もあります。実際に新聞に掲載された事件です。
お腹をすかせてスリが、スーパーで皿に盛られているウインナーをつかんで逃げ出しました。ところがそのウインナーは、切れていないもので14メートルも繋がっていたそうです。その男は盗んだのはいいのですが、後から後からそのウインナーがついてくるではありませんか・・・
それに気付いた犯人は、手で巻きつけはじめましたが、ついには腕が動かなくなって警察に御用になってしまった・・・というお話。
 
 私たちの自己中心性は、結局、自分自身に返ってきて、私たちを縛り付けて動けなくしてしまうことになります。聖書のいう「罪」は、まさにそのようなもので、自分の勝手だと考えていた自由行動が、やがては、私たちを縛り付けてしまうことになっていくのです。どうも、私たちが想像し考えている「自由」は、聖書が言っている「自由」と根本的にその概念が違うように思います。私たちは、人に迷惑がかからなければ、自分の好きなことをして、一番楽な道を生きることが「自由」だと考えています。それは枠の中だけではなく、ルールに縛られない生き方です。しかし、聖書には、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章31・32節)神さまのルールの中で、本当の自由を得ることができるのだと言うのです。
「クリスチャンは、酒やタバコができないから、自由が束縛されている」と言われる方がいます。(聖書は、酒やタバコを禁止していません)しかし私にとっては、どう考えても、その人は酒やタバコに縛られているように思えます。それらのものが無くても生きることができるのは、果たして自由が束縛された人生でしょうか? 
 沈みゆく船の上でパーティーをすることは、一時的な不安解消にはなりますが、確実に沈んでいます。罪によって動けなくなる前に、一度、イエス・キリストに自分を預けてみられたらいかがでしょうか?