私たちの教会の近くには東大阪では有名な神社があり、年始には多くの参拝者が教会の前の参道を歩く姿を見かけます。普段の参道は閑散としているのに、大多数の人たちは、年に一度だけ、小銭を賽銭箱に投げ入れて大きなお願いするのです。私はそんな姿を見ながら、「人間の都合や欲求に振り回される神社の神さまも大変だなー」と思っていました。ところが、ある読み物の中でその道の専門家が、こう指摘していました。「神社は『お願い事をするところではない』ということに、目からウロコと思った人は、今まで間違った参拝をしていたことに気づきましょう。実は神社の参拝の意味は、神様を敬い、感謝の心を持つことと祈りを捧げる場所、神様との交流の場なのです。なので、お願い事をするのではなく、まずは神様と交流する為にまめに参拝し、自分を知ってもらうことが大切です。」神社での祈りはそうなのか?!と目からウロコでした。
 
 イエスさまが、弟子たちに「祈るときは、こう祈りなさい。」と教えられた主の祈がありますが、そこにこのようなクダリがあります。「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイ6:10)これは、「主導権は神さまの側にあります」という信仰告白の祈りでもあるのです。人間は、どうしても「神さま」を、自分の願いや欲求を満たすためのツールとして利用してしまいます。人間の側に主権があるのです。しかし聖書は、天地万物を造られた神さまが人間を造り、神のために人は存在していることを教えています。極端に言うならば、主導権は神にあって、人間は神さまの願いや欲求に答えるための道具だというのです。私たちの人生に様々な問題や疑問が起こり、ストレスがあるのは、神さまが造られた目的の通りに自分を用いていないからなのです。すなわち使用方法を間違っているということです。勿論、イエスさまご自身も「求めなさい!」とおっしゃいましたし、自分の必要のためにお祈りしてもぜんぜん構いません。大切なことは、自分の願った通りにならなかった場合も、主権は神さまにあると考え、与えられた答えを受け止める。これが「みこころが、地にも行われますように。」の意味なのです。