「人間の和解・平和は、副産物であって、本来の「和解」の意味は、神と人との和解を示します。しかし神と私たちの間には、和解は、どう頑張ってみても成立しません。なぜなら聖い神と罪の人間とには大きな隔たりがあるからです。そのためには、とりなし手、すなわち神であり人である存在が必要でありました。そしてそのお方が死の犠牲を捧げたことによって、回復がきました。私たちの和解は、長続きしません。なぜなら、犠牲と死がないからです。現代に必要なものは、経済の回復や人権を守ることや、統一や、平和でもないのです。人々は、これらのものを求める故に争うのです。平和に対するさまざまなイデオロギーがありますが、イデオロギーは平和を与えません。それぞれの考え方が異なれば、そのことが敵になるからです。戦いには、それぞれの言い分があるのです。人々に本当に必要なことは、神との回復なのです。バカのように聞こえるけれども、イエス様を受け入れれば、人々は悔い改め、感動し、赦しがそこに起こるのです。」
これは、かつてオンヌリ教会のハー・ヨンジョ先生が、「和解と一致」というメッセージをされた時の内容の一部です。目からウロコでした。

 「負けるが勝ち」という言葉がありますが、私たちは勝つために自論を相手に押し付けることが多いと思います。しかし、正論をお互いが主張しても、たとえそれが「平和」のあり方についての議論であっても、ただ争いが起こるだけです。負けるという一見損をするような形であっても、一歩下がることを通して新しい世界が見えてくるということでしょう。まさに、神さまは、自分中心に生きる私たちとの関係を回復するために、断罪をして終わらせるのではなく、神さまの側が、敗北したかのような、人間の罪の罰を全部かぶる十字架という方法をとられました。これは神の側の勝利でもあったのです。
 神さまの愛が無条件であるからこそ、神の愛から逃れることができる人は一人もいないのです。あなたが神を信じなくても、嫌いであっても、無視しても、神さまはあなたを愛しています。「神は愛なり」(聖書)