祈っていると、かえって最悪の状況になることがある。でも、それは、一番必要な祈りに神様が答えて下さっている答えであるかもしれない。
私が最もうつ病で苦しんでいた時は、最初の会社で三年ほど働いた時のことだった。未信者だった私のために、クリスチャンの友が祈っていた。きっと、「うつ病が癒されるように」と祈ってくれていたと思う。でも、それ以上に「救われますように」という祈りが捧げられていたと思う。うつ病が癒されるというのは、この世の一時的なことだけれど、救いは永遠のこと。きっと、祈ってくれている人たちは、私の救いのために祈るのに、なぜ、こんなに彼女は苦しんでいるのだろうと思ったかもしれない。でも、これが、神様の答えだ。私は、うつ病で苦しまなければ、神様を信じることができなかった。全てが失われた。私の人生は真っ暗だと思った。けれど、そこまで砕かれなければ、私という人間は、神様に降参できなかった。私のやり方、生き方では、無理だということを知らなければ神様に頼ることができなかった。 神様は、私のための祈りに答えれば、答えるほど、私の状況は悪くなった。それは、神様が私に最も必要な祈りに応えるためだった。
結果、私は今、最高に幸せだ。平安な日々を得ただけでなく、永遠の命をも得た。調子の悪くなることもある。苦難にもあう。でも、今は、神様に祈ることができる。神様にすがることができる。地震がおこるかもしれない。経済破綻がおこるかもしれない。病気になるかもしれない。人は死んでしまうかもしれない。でも、私の頼るお方は、真実で永遠である。こんな幸せなことはない。祈りが聞かれるというのは、けっして、私の願い通りになるということではない。神様が、私に最も良いことをしてくださるということ。 (ある青年からのメールより)
私たちは私たちの都合で物事が進むことを願いますが、神さまの側にも都合があるということを知らなければなりません。そして神さまの都合は、私たちにとっての最善であり、良い道を開くためなのです。