私は、今まで沢山の方々によって支えられてきました。アメリカ留学をした時の行き先は、テネシー州とジョージア州の州境のド田舎でした。高校を卒業したばかりで、右も左もわからない私がアメリカの大学で生き抜くことは大変なことでした。会話力も乏しければ、深い話をすることもできませんから、挨拶程度の友人はできても、真の友人と呼べる人はなかなかできませんでした。思うように、言葉で表現できないジレンマの中で寂しさも覚えました。言葉が通じることが、どれほど有難いことかを思い知りました。日本人もいない片田舎で、寝るか勉強するだけの生活に疲れを覚えました。
ある日の夕食時、ダイニングホールで、同じテーブルに座った2年上のスティーブ・ヤンスという学生と、いつものように社交辞令の挨拶をしました。普段ならそれ以上の会話はなく、ただ食べるだけで、その場を後にしましたが、彼は私に興味を持って、色々な質問をしてきました。私が上手く英語が話せなかったり説明ができないにも関わらず、積極的に話しかけて、一緒に行動するようになりました。やがて、彼は私を「ベスト・フレンド」だと言って、他の人たちに紹介してくれるようになったのです。私は彼にとって、何の益にもなっていないのに、どうして自分のことを「親友」だと言うのだろうか? と驚きと同時に励まされたのを覚えています。彼は今でも親友です。
スティーブは、あの時、私にとってイエス様が違った姿でご自身をあらわされた存在だったと、後で気づかされました。彼自身がイエス様というわけではありませんが、主が遣わしてくださった存在でありました。
私たちは自分の人生を振り返った時に何を見るでしょうか? 辛かったことや、悲しかったことなど、暗かった部分を見て嘆くでしょうか? そのような砂漠のような道を通った時にも、不思議なようにしてオアシスを見つけたことはないでしょうか? もし神さまがご一緒してくださった跡を見ることができるなら幸いです。
「あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています」(詩65篇11節)