ある金持ちが新聞に次のような広告を出しました。「現在の自分の暮らしに心から満足している人は、私のところに来てください。それを証明できたら1千万円差し上げます。」その広告を見た数多くの人が金持ちの家に押しかけました。しかし、1ヶ月が過ぎても1千万円を受け取る人はいませんでした。長い行列はしだいに短くなり、そのうちに、だれも金持ちを訪れる人はいなくなりました。金持ちのところにやって来た人たちは、口々に自分がどんなに現在に満足しているかを熱弁しました。しかし、金持ちのある質問に対しては、だれも答えることができませんでした。それで結局、ひとりも1千万円を受け取ることができませんでした。金持ちの質問はこうです。「あなたが本当に今の暮らしに満足しているなら、どうして1千万円をもらいにここにいらっしゃったのですか?」(「神に目を向けましょう」キム・チャンファン著より)

 私たちの満足というものは、一時的であることがわかります。どんなにお金があっても、もっと欲しいと願うようになり、地位があっても、学歴があっても、もっと立場が欲しいと求め、大きな家や高級車を手に入れても、すぐに飽きてしまうのが人間の姿です。満足感を味わいながらも、ほとんど同時に次を求め始めているのです。そのような欲求があるからこそ、文明文化は発展していったといっても過言ではないでしょう。しかし、どれだけ便利な社会になっても、人間の満足感は満たされ切れていないし、空白感や孤独感は昔と変わらず残っています。神さまが私たちを、「欲求」を持った存在として造られたわけですから、私は、それは悪いことだとは思っていません。しかし、「満足」することができる方法も神さまは与えてくださっているのです。私たちは神さま仕様で造られていますから、それに従えばいいのです。すなわち神さまの側に立ったモノの見方をすると、実際には足りなくても、それで満足することもできるようになるから不思議です。よく考えてみてください。神さまは私たちが生きるためにどれだけ多くの大切なものを与えて続けてくださっていることでしょうか。すでに満ち足りているのです!