当時小学2年生であった娘が、クリスマスの1ヶ月ほど前から私に「今年のクリスマスは、サンタさんに新しい自転車を頼んだ」と言い出しました。実は、娘はサンタが誰なのか知っていながら、私にお願いをしてきたのです。私は、家計の予算の関係上、自転車をプレゼントすることなど、全く考えていませんでした。ところがクリスマスの10日ほど前に、ある場所で娘がほしがっているマウンテンバイクが、なんと通常の半額の値段で売られているのを発見しました。私は意を決して注文しました。家に届くのはクリスマスの3日前。娘のいない時間帯に運んでいただくことにしました。そのことを知らない娘は、何度かプレッシャーをかけてきましたが、私は相変わらずな素振りを見せながら、内心ではニヤけていました。そしてクリスマスの3日前に、自転車が届き、当時の家の一部屋は「開かずの間」になっていて、そこに自転車を隠しておきました。3日前、2日前になっても、娘は私が自転車を注文した様子もないし、自転車が届いている様子もないので、諦めはじめました。そして、サンタさんに頼むプレゼントの希望変更をしてきたのです。「紙粘土でいい」と言い始めたのです。クリスマス前日には、「サンタさんが、いいと思うものだったら、何でもいいや!」と投げやり状態になっていました。もうサンタさんに対する夢も希望も信頼も期待感も全くない状態になりました。当日の朝早く、夜の明けるよほど前に、私は起きだして隣の部屋に隠してあった自転車を取り出して、部屋の隅に置きました。
いよいよ娘が目を覚まして、枕元に置いてある小さなプレゼントの箱に気付いて開けました。自転車のチェーンを出して、「今の自転車につけることができるからこれでいい・・・ありがとうサンタさん」と言うのです。まだ気付いていない娘にあれを見なさいと促すようにして指差すと、娘は欲しかった自転車に気付き、感激のあまり号泣しました。
 
私たちの信仰の部屋には、すでにオーダーしたものが置いてあるとするならば、私たちは何も憂えることはないのです。ただ見えないのが残念なのですが、信仰の目は、それをしっかりと見ることができるのです。