先日、子どもが収入の十分の一を遥かに超える額の献金をしようとしていたので、「安月給なのにそんなにして大丈夫なのか?」と、無謀にならないように諭すつもりで質問すると、「何倍にもなって返ってくるんでしょ?」との返事。牧師である私は、それに何の返答もできず、ただ祝福を祈りました。「信仰」と「無謀」は紙一重で、よく吟味することがバランスある信仰だと思っている私に、一石を投じるような内容の文章を、つい先日読んで考えさせられています。これがその一部です。

うちの末っ子は、小学生の頃から数年間、歯の矯正をしました。子どもは歯医者に行く日が大好きでした。家から地下鉄に乗ってその歯医者に行くにはとても時間がかかるので、帰りに何か買って食べるよう母親がお金をあげたからです。その日も5千ウォン(約5百円)をもらって歯医者へ向かいました。しかしちょうど地下鉄駅の階段のところにホームレスの老人がいて、物乞いをしていました。おじいさんの前にある入れ物には、小銭がいくつか入っているだけでした。それを見た子どもは千ウォン(約百円)札を一枚入れました。その次は、地下鉄の中で、賛美歌の流れるカセットプレイヤーを首に掛けた視聴障がいのおばあさんに会いました。その人の入れ物にも小銭が数個しかありませんでした。また心に負担を感じた子どもは千ウォンを渡しました。最後に、子どもが降りた駅で、物乞いのおじいさんに会い、三枚目の千ウォン札を渡しました。その日の夜、子どもの話を聞いて、私は「本当によくやったね」と誉めてあげました。「そんなに非現実的に生きたら、後々、どうやって自分の家族を食べさせていくんだ?!」と批判する人もいるかもしれません。しかし、私には信じていることがあります。主は、そのような聖なる負担を感じる人を必ず用いられるということです。私たちが持っているものが、からし種ほどにもならないものであったとしても、それが置かれた所は、ほかでもなく主の御手であるということを忘れないでください。世の人が愚かだと思うことでも、主が用いられるなら、それは奇跡の始まりとなるのです。(「成熟者クラス」イ・ジェチョル著より引用)