「神はなぜ沈黙を続けているのか。キリストが十字架にさらされたときも、神のために自らの命をささげようとしている人がいるときも、神はなぜ黙ったままなのか? そして神はいるのか?」このような問いを自らに語りかける宣教師の姿を通して、キリスト教の弾圧と信仰とは何かについて描いた遠藤周作の小説「沈黙」というのがある。

私たちは人間主体に考えるならば、神が自分のために何もなさろうとしていない時間は、疑問形でしかない。「どうして神は働いていないのか?」「何故神は私を助けてくださらないのか?」「私から遠くに離れておられるのではないか?」

旧約聖書に出てくる「ノアの方舟」で有名なノアは、40日40夜雨が降り、方舟の中で不安な日々を過ごしましたが、「神は、ノアと箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられていた」と記されています。私たちにとって、神が沈黙されておられるような時も、決して忘れておられるのではないということなのです。

かつてある青年が、「癒しの集会」に出たときに、たくさんの病気の人々が癒される姿を目の当たりにしました。集会が終わって青年が出口から出ようと人の列の流れにいると、車椅子を押している女性の姿に目が止まりました。そしてその車椅子の子を見ると、頭が異常に大きくて、歩くことのできない子供が乗っていました。すぐにこう訴えました。「神様! この子は、今日癒しが必要だったのに、どうして、癒してくださらなかったのですか?」それから長距離バスに乗って帰る途中、青年は、夢を見ました。それは集会が終わって、出口のあたりを歩いていると、あの頭の大きな子と、その車椅子を押している母親の姿と、「どうして、この子を癒してくださらなかったのですか?」と怒っている自分自身の姿もありました。しかし、その後ろにイエス様が立っておられて、その車椅子の子の頭を抱きかかえながら「私は、この子を忘れているのではありません。忘れたことはありません。」と語っておられる姿を見ました。

「私はあなたを忘れることはない」(イザヤ49章)